このブログは2020年10月17日に公開しました。
こんにちは。
発達障害者のふくです。
自称広報係です。
こちらは雨です。
わたしの心にも雨が…というエモい(?)ことはなく、いつも通り過ごしています。
「エモい」の使いかた合ってます…?
さて。
最近、某テレビ番組で話題になった「ロジハラ」がわたしの中で未だに話題沸騰中です。
わたしは「ロジハラ」と発達障害は無縁ではないと思っているのです。
「ロジハラ」ということばが誕生する前から、わたしを含む一部の発達障害者たちは「ロジハラ」について色々と考えを巡らしていたと言っても過言ではないと思います。
- このブログにおける「ロジハラ」の定義
- 発達障害者ふくが「ロジハラ」に出会ったときの話
- 発達障害と「ロジハラ」の関係性(?)
- 結局「ロジハラ」ってどうなの?
- 発達障害者ふくは「会話はキャッチボール」ということばを肝に銘じたい。
このブログにおける「ロジハラ」の定義
某テレビ番組の定義とはかなり異なる定義になると思います。
発達障害者ふくが考える「ロジハラ」
- 筋道立てて一方的に説明する(話し続ける,説教をし続ける)ことで相手を過度に責め立てること。
- 発言者は疑問文などをときおり用いるものの、相手の発言を聞くつもりがない。(疑問文というより反語?)
- 発言者は自身の発言を論理的だと思っているが、受け取り手または第三者にとっては論理的だとは思えない場合も含んでいる。
某テレビ番組を見ていないものの、twitterをさらっと眺めて知る限り、某テレビ番組の定義と紹介された事例が乖離していると感じました。
そのためこのブログでは某テレビ番組で事例として紹介された一部の事例は「ロジハラ」には該当しないという立場を取りたいと思います。
そこでただ論理的に説明しているだけの事例を「ロジハラ」から除外するために、「ロジハラ」ではないものについても考えてみようと思います。
発達障害者ふくの考える「ロジハラ」ではないもの
- 筋道立てて説明する(説教をする)ことで相手の反省を促す。
- 相手が反省をしていると感じられた時点で発言者は会話を終えようとする。
- 発言者は疑問文などをときおり用いて、相手の意図や弁解に耳を傾けようとする。
- 発言者の発言は第三者から見ても論理的で悪意のないものに感じられ、発言者の発言は受け取り手にとって有意義なものである。
というわけでこのブログでは
それはロジハラだ!
ひどい!ひどい!
…と何かにつけて「ハラスメント」だと訴える事例については扱わないこととします。
某テレビ番組では、「ロジハラ」に含まれているものがわたしにとって、発言者のハラスメントの事例と受け取り手の言いがかりの事例がごちゃ混ぜになっていた印象があります。
まぁ番組自体は見てないけど…
発達障害者ふくが「ロジハラ」に出会ったときの話
では先ほどこのブログで扱うと宣言した「ロジハラ」に出くわした話をしますね。
昔々、発達障害者ふくはアルバイトをしていました。
そのアルバイト先の上司は筋道立てて話しているような雰囲気で、長々とお説教をしてしまう傾向があります。
ネチネチというと言い過ぎるような気もしますが、まぁそれに近い感じです。
怒鳴るわけではなく、聞いているときはその通りかなと思ってしまうので、落ち込んでしまいます。
ただ、この上司のお説教には良くない点がいくつかあります。
上司のお説教の良くない点
- 相手が反省をしていても長い長いお説教は続く。
- 自分のお気に入りの従業員にはお説教をしない。
- 相手の発言を聞いているように感じるが、相手の発言を事前にある程度予測した上で、その発言をもとにさらなる持論を展開する。(相手の思いなどに関心がない。)
CASE1
ある日、上司の長い長いお説教が日々続いたことで精神的に参ってしまった社員さんが辞めることになりました。
その社員さんが辞める日もその方は1時間以上のお説教をされたらしいです。
わたしはその場にいませんでしたが、目撃した同僚はあそこまでする必要はないと憤慨していました。
また、その上司はお気に入りの人には注意しないんです。
CASE2
またまたある日のこと、若い男の子がアルバイトとして入ってきたのですが、その1ヶ月後くらいに髪の色が明るすぎると30分ほどお説教がありました。
わたしはその場にいました。
髪の色を暗くするか辞めるか選んでほしいということでした。
結局その子は辞めてしまいました…(泣)
話が長いなぁ…と思いました。
近くで話を聞いているわたしも気持ちが萎縮してしまいました。
でもまぁこの職場でその髪の色はちょっと明るいかなと思ったりもしました。
ところがそのあと若い女の子がアルバイトとしてやってきて数ヵ月後に髪が明るくなるのですがお説教はありませんでした。
さっきの男の子の髪色よりも明るかったのに…
まぁいいんじゃない?
…の一言だけでお咎めなしでした。
その場その場では論理的に見えるお説教も、長い目で見ると一貫性のなさを感じましたね。
相手によって自分の方針をころころ変えていますからね。
これらの事例こそが「ロジハラ」だとわたしは思うわけです。
発達障害と「ロジハラ」の関係性(?)
なぜ発達障害者たちが「ロジハラ」ということばが話題になるずっと前から、このことについて関心を持ち意見を交わしていたかという話をさせてください。
発達障害の特性のひとつに、「論理的に物事を考えることができる」というものがあります。
本などに発達障害の特徴のひとつとして挙げられていますが、当事者は懐疑的に捉えている人も少なくないです。
「ロジハラ」という概念が話題になる前までは、「正論はときとして刃になるので、正論の言い過ぎには気をつけようね」と発達障害当事者のあいだで話し合っていました。
話し合いっていってもSNSなどのオンライン上での話なんですが(笑)
なぜ発達障害者のあいだでこのような話し合いがあったのか。
発達障害者は精神的に傷つきやすかったりします。
また聴覚過敏を持っている方にとって、徐々にヒートアップしていきそうな正論というのは耳が痛いものです。
ここでいう「耳が痛い」は慣用句ではなく本当に耳が痛いのです。
物理的に耳が痛いです。
頭が痛いという方もいらっしゃるかもしれません。
わたしは耳が痛いなと感じます。
で。
仮の話ですが、正論を話し続ける特性を持つ発達障害者さんと繊細で聴覚過敏もある当事者さんが当事者会などで出会ったとしましょう。
地獄絵図ですよね。
当事者同士だから分かり合えることもあるだろうと淡い期待を寄せて、当事者会に勇気を出して行ったら、正論尽くめでつらい思いをした。
もう当事者会には行きたくない。
…なんていう事態も起こっていたと思います。
わたしは臆病なのでSNSでようすを伺っていました(笑)
今はわかりませんが10年ほど前は、発達障害者が当事者会を開催したところで短期間でつぶれることが多かったです。
定型発達者(≒発達障害者ではない人)のファシリテーターが必要なのではないかと議論になったこともありますね。 SNSで。
結局「ロジハラ」ってどうなの?
発達障害者の特性のひとつである「論理的にものごとを考えられる」というのは長所でもあります。
特に海外ではこの長所を生かして専門職に就かれている方もたくさんいらっしゃるみたいですからね。
数学や理科が好きな発達障害の子どもたちも少なくないようですよ。
苦手なことも多く、定型発達者さんと比較して落ち込みやすい日常生活を送っている中で、特性を生かした仕事や趣味を見つけられるのは幸せなことだと思います。
わたしも高校生のときに倫理という科目に出会ったときはすごく楽しかったです。
筋道立てて論理的に考えることは楽しいなと思いながら、昔の思想家について学んでいましたね。
そんな発達障害者の「論理的に物事を考えることができる」という長所に見える特性がなぜときとして短所になってしまうのでしょうか。
ここで一旦、最初に示した「ロジハラ」の定義についてちょっとだけ忘れてください。
というのも。
ある発言について、論理的である発言かそうではないかをそう簡単には区別できないと思っています。
個人的な見解です。
ワードなどで文章にしたときには論理的に感じられた文章も、その文章がある人の手にわたりそれを口頭で伝えるときでさえも、論理性が失われうると思っています。
抑揚がついてしまえば純粋な論理とは言えないと個人的には思うのです。
感情がこもっているから抑揚がつくわけですからね…
いくら論理的に正しいことを言っていても、相手の立場を一切考慮せず持論を延々と続けられると、それはやはり「ロジハラ」になりうる危険があると思います。
というわけで。
発達障害者ふくが出した結論
- ある出来事が「ロジハラ」に該当するかどうかは発言者の論理性の有無ではなく、発言者が相手の立場を考慮しているかどうかで決まると思う。
- 発言者が自身の発言を「ロジック」だと考えているが受け取り手や第三者が「ロジック」だと考えていない場合も「ロジハラ」に該当すると考えている人は少なくないと思う。
- 現段階では「ロジハラ」ということばから連想される事例に論理性を感じない場合があるので、別のことばが必要だと思う。
いちばん違和感を抱いてしまうのは、「ロジハラ」という概念が論理的ではない発言をされたときも含んでしまっていることですかね。
結局、雰囲気で「ロジハラ」ということばを使っているような気がします。
発達障害者ふくは「会話はキャッチボール」ということばを肝に銘じたい。
では純粋に論理的な発言であれば「ロジハラ」には該当しないから、そのような発言の仕方ができるようにすれば問題ないのでしょうか。
わたしはそうは思いません。
「ロジハラ」ということばがこれほどまでに多くの人の関心を寄せてしまったのは、論理性の有無と関係ないと思うのです。
ではなぜ「ロジハラ」が人々の関心を集めたのか。
日々、冷静かつ論理的に話している(つもりの)人にとっては「ロジハラ」ということばは面倒でしかありません。
どうしたら相手が心から納得してくれるかを日々考え、論理的に話をしようと気遣っている人からすれば、「ロジハラ」などという概念はワケノワカランものだと思います。
その一方で。
上司などから長い長いお説教をされ、反論の余地も許されていない生活をしている人からすれば、自分のこの辛さは「ロジハラ」のせいかと合点がいくわけですね。
まさに「ロジハラ」は救世主です。
だからこれほどまでに「ロジハラ」ということばが人々の関心を集めたのだと思います。
ですが「ロジハラ」に対してさまざまな意見を持っている人たちに共通していることがあります。
他者とのより良いコミュニケーションを望んでいる…!!
- 相手に助言を与えることで相手が成長してくれたらうれしい。
- 相手に自分の思いを伝え合うことで協力関係を築きたい。
- 相手に自分の考えを伝え合い共有することで問題解決をしたい。
「会話はキャッチボールである」ということばをよく聞きます。
キャッチボールというのはボールを投げたあとに相手が投げ返してくれて初めて成立するものだと思います。
まぁわたしはキャッチボール苦手なんですけどね。
ボール怖いよぅ…
キャッチボールと同様に、他者とのコミュニケーションは相手の立場を考慮せずして成立しないと思うのです。
これは「ロジハラ」だ!!
ひどい!!ひどい!!
「ロジハラ」なんて言いがかりだ!!
なんでもハラスメントといえば済むと思って!!
…と「ロジハラ」かどうかを審議する前に、コミュニケーションのありかたそのものや相手との関係性について改めて考えてみるといいのかもしれません。
ハラスメントのつもりがなくてもハラスメントだと言われた場合、少なくとも相手からは信頼されていないと思うのです。
なので自分が「ロジハラ」の加害者か否かではなく、なぜ相手との意思疎通がうまくいかなかったのかを考えたほうがいいかもしれませんね。
わたしはかつて「ロジハラ」をしていたのではないかと今さらながら反省しています。
会話はキャッチボール…
相手の反応も適宜確認することを忘れないようにしたいと思います。
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