こんにちは。
「ア・プリオリな総合判断」を持っているふくです。
すごいでしょう?
ですが皆さんも持っていますよ。
きっと赤ちゃんも持っています。
さて。
あの100分de名著さんが、ついにカントの『純粋理性批判』を取り扱うということで、わたしの中で盛り上がっています。
西洋思想ってけっこう難解なんですが、カントの三大批判書はもう最強にハードなやつです。
そんなごりごりの専門知識を地上波で取り扱うというのはなかなか難しいこともあったと思います。
ありがたいです。
では。
さっそく第2回放送についておさらいしましょう。
第3回放送は6月15日(月)の22時25分からですよ。
水曜日の早朝に再放送もあります。
学部卒の素人に近い人間ががんばって書いたブログです。
このブログを書くために番組を3回観ました。
なので温かい心で見守ってください。
ヒュームとの出会いにより激しく動揺するカント先生
前回の第1回放送では、『純粋理性批判』が登場するまでのヨーロッパは、イギリス経験論と大陸合理論のどちらがいいのかという大論争が起きていたという話をしました。
今回の主人公(?)であるカント先生は、もともと大陸合理論派だったみたいです。
まぁそうでしょうね。
カントはケーニヒスベルク出身です。
今はロシア領ですが、当時はプロイセン領でした。
プロイセンは現在のドイツとまぁだいたい同じと思ってもらって差し支えないです。
少なくともイギリス出身ではないことは明らかです。
そんなカント先生、とある書物によって衝撃を受けます。
それがイギリス経験論者の一人、ヒュームの書いた本です。
簡単に言うと、ヒューム先生はこんなことをおっしゃってます。
所詮、科学も人間が経験したことをもとに考え出したものに過ぎない。
観察や実験によって発見した原理や法則は、客観的なもののように思えるが、人間の経験から得たものである限り、それは客観的とは言いきれない。
...というような感じです。
カント先生はショックを受けます。
言われてみればそんな気がする...と思ったのでしょう。
でもカント先生は理想の高い人なので、こんなことではめげません。
確かに、自然科学の法則や数学は人間である限り、人間の主観性からは逃れられないかもしれない。(イギリス経験論を受け入れる。)
でも、人間が知りえた自然科学の知識や数学は、国や文化を超えて多くの人々に共有されるはずだ。
文化や国を超えて万人に共有されうるのならば、それらの知識は普遍的なはずである。
...と考えたわけです。
ヒュームなどのイギリス経験論の主張も受け入れつつも、大陸合理論で唱えられている人間には知識を得るためにもともと知性が備わっているという考えも採用したいと考えました。
カントがこれほどまでに「自然科学の知識や数学は万人に共有される」ということを証明しようと懸命になった理由は、当時の時代背景も大きく影響しているのですが、そのことについては別の記事で書きたいと思っています。
人間が生まれつき持っている能力
イギリス経験論者ヒュームの言い分もわかる。
でも科学や数学が多くの人々と共有できるという考えはどうしても捨てきれない。
カント先生、悩みます。
そこで生まれたのが『純粋理性批判』なのでした。
たしかに人間は経験によって知識を得ることも多い。
でも、その知識を得るためにもともと人間に備わっている能力があるのではないか?
誰もが生まれつき持っていて、経験によらない能力があるのではないか?
カント先生は、そう考えました。
つまり。
カント先生は、大陸合理論とイギリス経験論のどっちが正しいかという考えをやめ、どちらの言い分も一理あるという方向に舵を切ったわけですね。
さて。
カント先生は、人間が知識を得るためにもともと備わっている力、つまり、個々人の経験によらない能力について、こんな風に説明しています。
まず、目の前の事象をそのまま受け取ります。
このときに「感性」という認識能力が使われます。
時間や空間を把握する能力だそうです。
その次に、受け取ったものを「悟性」という認識能力を使って、整理します。
見たものや聞いたもの、感じたことなどを、体系化して物事を判断するという感じでしょうか。
番組では、整理する,秩序づける,まとめるということばが使われていました。
見ただけ、聞いただけでは知識にはなりませんよね。
えっどういうこと?
感じたことをそのまま覚えておけばそれは知識じゃないの?
そもそも「悟性」って何?
って思いますよね。
見たものや聞いたもの、感じたことを知識として秩序づけ、自分以外の他者とその知識を共有するために、人間は「物事を考えるときの基本的なパターン」(西研先生の番組内解説より)を持っています。
カントはそれを、「悟性」にもともと備わっている「カテゴリー」と名づけました。
この「カテゴリー」 、全部で12個あるのですが、全て説明することは難しいです...。
詳しく知りたいという方は、数年後の再放送を待つか、『100分de名著』のテキストをご購入ください。
テキストには『純粋理性批判』以外の名著からも適宜引用されていますので、カント先生がどうしてこの『純粋理性批判』を執筆しようと思ったのかが理解できます。
伊集院さんはカントに人間味を感じるとおっしゃっていた気がしますが、わたしもそう思います。
...とはいえ、このブログだけでもある程度理解してもらえたらいいなと思っています。
なので、大筋をつかむために必要なものだけ紹介したいと思います。
カントのいう「カテゴリー」は全部で4種類12個あるのですが、そのうちのひとつが、「関係」という種類の「原因と結果」です。
人間に生まれつき備わっているこの「原因と結果」によって、感性で時間と空間を把握したものを、秩序づけるわけです。
具体例を挙げます。
わたしのかわいい姪はまだことばもそれほど多くは話せません。
生まれて間もないわけですね。
でもそんな生まれて間もない姪っ子にもこの能力は備わっているはずですね。
カントが生まれつき持っていると言っているので。
さて。
そんな愛しい姪っ子の姫ちゃん、電話で話すという経験はほとんどありません。
ですが、姫ちゃんは自分が「見て(mite)」という音声を発すれば、ふくちゃん(当ブログ運営者)がこちらを見てくれることを学んでいます。
ビデオ通話ではなかったので見ることはできませんでしたが(泣)
「見て(mite)」と言えばふくちゃんがこっちを見てくれるということは、経験によって学習したのかもしれません。
カント先生はイギリス経験論を全否定したわけではありませんし。
ですが、経験によるものだけとは言いがたいんですよね。
姫ちゃんは、電話で話す経験がほとんどないわけです。
でも、自分が「見て(mite)」という音声を発すれば、ふくちゃんがこちらを見てくれるということを関係づけたんだと思います。
この「Aが起こればBが起こる」,「AゆえにBである」という考えかたこそが、人間に生まれつき備わっている能力というわけです。
もし100%経験によるものだとしたら、電話でわたしに「見て(mite)」とは言わないはずです。
姫ちゃんは生まれつき備わっている感性と悟性を駆使して、つまり「ア・プリオリな総合判断」でもって、「見て(mite)」ということとふくちゃんがこちらを見てくれることに因果関係を見出したといえるのではないでしょうか。
どうでしょう??!
次回「理性の暴走」の放送内容を大予想!
わたしもまだ視聴していないのでわかりませんが、次回は理性のネガティブな側面を取り扱うようです。
- なぜ宇宙の果てはどうなっているのかを考えしまうのか
- なぜ神の存在について考えてしまうのか
…といった考えても答えがわからないような問いに対しても何かしらの答えを出そうとする側面が理性にはあるようです。
未知の領域について熟考することは、一見すると良いことのように思えます。
ですが、宇宙の果てや神の存在についても理性で持ってすれば、答えを出せると思うのは、少し傲慢な発想のような気がします。
そんなに理性を信奉して良いのでしょうか。
人間の理性というはそれほどまでに万能なのでしょうか。
…第3回はたぶんそんな感じの回になるんじゃないかなと思います。
ちがったらごめんなさい。
テキストも購入したものの、第2回の復習が精一杯でした。
予習なんてとんでもない…
というわけで。
わたしの今後の展開予想はけっこう頼りないので、皆さんぜひとも『100分de名著』を見てくださいまし。
月曜日の夜10時25分からです。
スポンサーリンク