この記事は2020年6月22日に公開しました。
こんばんは。
やや疲れ気味のふくです。
なぜわたしは疲れているのでしょう?
先週いろんなことをがんばったからかな。
じゃあなんでいろんなことをがんばったら疲れるんでしょう?
いやそれはやっぱり頭や身体をたくさん使ってエネルギーを消費したからじゃない?
じゃあどうして頭や身体をたくさん使ったらエネルギーを消費するんですかね?
えっ?えっとそれは…
そんなことは知らん!!!
神さまとやらがいて人間をそういう風に作ったんじゃないの??!
…神さま?
神さまっているんでしょうか?
というわけで。
今回はこんな風にどうしてどうしてマシーンと化し暴走してしまう理性のお話をします。
前回
理性は究極の真理が知りたい!
先ほどのように人間が持つ理性は質問責めをします。
感性と悟性で目の前の出来事を判断するだけでは満足できないのでしょうね。
なんでAが起きたの?
AがBゆえに起きたのはわかったけど、じゃあなんでBは起こったの?
なるほどBの発生原因はCらしい。
じゃあなんでCは…
最終的には時間と空間を超えたものを想定して答えを見つけ出そうとする傾向が理性にはあるようです。
『100分de名著』の第3回『純粋理性批判』放送では、以下の疑問が提示されていました。
①宇宙は無限か、有限か
②物質を分解すると、これ以上分解できない究極要素に至れるか否か
③人間に自由はあるのか、それともすべては自然の法則で決定されているのか
④世界には、いかなる制約も受けないものが存在するのか否か
『100分de名著』2020年6月号より引用
このような問いを考え続けることが好きな人と、途中で投げ出したくなる人がいるような気もします。
ただ、カントはこのような問いについては、理性は答えを出すことが出来ないと言い切ってしまいます。
時間と空間を超えた問いには答えを出せない
カントは先ほどの問いの答えを出すことが出来ないことも証明しています。
たとえば、「宇宙は無限か、有限か」について。
- 宇宙は有限である。
- 宇宙は有限ではない。(無限である。)
という2つの命題を立てます。
そしてこれらそれぞれの命題の真偽を判定します。
まずは「宇宙は有限である」のほうから行きましょう。
この命題を証明するためには「宇宙は有限ではない」という命題に矛盾があればよいと考えます。
背理法っぽいな思いました。
すると、宇宙が有限でなければ、宇宙に始まりがないことになるとカントは言います。
始まりがないということは、宇宙を積み上げられたレンガに例えると、土台のないところにレンガを積み上げようとしても、一生積み上がらないですよね。
底なし沼にレンガを積み上げようとしても、レンガが積み上がらない感じですかね。
拷問みたいですね(笑)
というわけで「宇宙は有限ではない」というのは無理があるので、ここで矛盾が生じたわけですね。
もう1つの命題、「宇宙は有限ではない」も行きましょう。
今度はこの命題を証明するために「宇宙は有限である」のほうに矛盾があるかどうかを考えます。
宇宙が有限であるためには始まりが必要です。
宇宙のいちばんはじめがないといけないわけですね。
ところが、このいちばんはじめなるものを想定すると、そのいちばんはじめなるものには時間が流れていません。
いちばんはじめができたから宇宙がスタートする、時間が流れ始めるということだと思います。
時間の流れが存在しないもの…?
よくわからないですよね。
そんなものあるのでしょうか。
なさそうな感じがしますね。
というわけで「宇宙は有限である」という命題に矛盾を発見しました。
…ん?
「宇宙は有限である」とも言えないし、「宇宙は有限ではない」とも言えないということ…?
結局、何もわかってない…?
まぁたぶんそんな感じです。
少なくともわたしは番組とテキストをこのように解釈しました。
そしてそれ以上のことはわかりませんでした。
真理を追究するのは悪いことではない
理性が物事の究極を知るために問い続ける性質のものらしいことがわかりました。
宇宙とか物質の最小単位とか神のような絶対的存在の有無とか…
ただ、こんなことを問い続けるだけの人生って、いやですよね?
わたしはちょっといやですね。
宇宙の始まりについて考えることに没頭していたら、家族や友人との大切な時間を過ごせなくなってしまった…
なんてこともあるわけです。
もちろん、宇宙の研究はロマンがあります。
ただ、そのような研究者の方々も未知のことに対していい距離感を保ちつつ、家族や友人と楽しいひとときを過ごしていると思います。
また、理性は完全性や真理を追求するのは性質がありますが、それは悪いことではないです。
宇宙や神のような唯一無二の存在者に関してばかり理性の性質を使うのはもったいないと思います。
カント先生も、この理性の性質は人間がよく生きることにこそ使うべきだとおっしゃっています。
このブログの第1章で、「人間に自由はあるのか、それともすべては自然の法則で決定されているのか」という問いをご紹介しました。
人間に自由はあるのか。
どうやらこの問いについては、第4回放送(2020年6月22日)で深く掘り下げてくれるそうです。
今夜ですね!
注意)このブログは2020年6月22日に公開しました。
この問いについては、宇宙や物質の最小単位についてよりも、人間が自分の人生を充実させるために必要な問いのように感じます。
もしも人間に自由は全くなく、全てが物理法則によって成り立っているとしたら、人間同士の争いもさまざまな物理法則によって必然的に発生してしまった…
という悲しい発想も生まれてしまいそうです。
人間同士の争いは人間の意思でとめることはできないのでしょうか。
以前『100分de名著』では同じくカントが執筆した『永遠平和のために』も取り上げてくださっています。
わたしがカントの思想をもっと知りたいと思ったきっかけになった著書です。
この著書では、「国際連盟」の構想に関する言及もあります。
国際連合の前身である国際連盟すら存在していなかった当時、この構想は画期的なものでした。
『純粋理性批判』とはちがって読みやすいのでご安心ください(笑)
一方で、せっかく過去の偉人たちがさまざまな自然法則や物質法則を発見したのに、実は自由にそれらを操ることができるんです〜なんて人が登場したら、なんとなく怖い気がします。
人間は重力から自由になれるんだ〜!
ほら見て〜!
リンゴが浮いてるよ〜!
…これじゃあ万有引力の法則を発見したニュートン先生がかわいそうな気がします。
人間に自由はあるのでしょうか。
人間がよく生きるためには理性をどう使えばよいのかも気になります。
今夜22時25分、『純粋理性批判』いよいよ最終回です。
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