こんばんは。
アインシュタインの「特殊相対性理論」に興味を持ち始めているふくです。
ヨビノリ先生のYouTube動画を見ています。
ヨビノリ先生は顔が丸いのでアンパンマンといじられていますが、個人的には頭がよすぎて畏れ多いです。
この動画を見ているときに、ヒュームの経験論やカントの思想が今も受け継がれているんだなと思ったりしました。
今のところ正しいとされている。
…という発言には番組で学んだヒュームの経験論的考えが脳裏をよぎりました。
これが始まりだとする。
もうこれは受け入れてもらうしかない。
この発言からは、カントが警鐘を鳴らした「理性の暴走」を止めるための工夫なのかなと思ったりしました。
『100分de名著』も素敵な番組ですが、ヨビノリ先生のYouTube動画も素晴らしいです。
理系ホイホイ動画です。
でもわたしは文系です。
さて。
人間の理性は時として回答不可能な問いにも答えを出そうとする、どうしてどうしてなんでなんでマシーンになってしまうことがあるというのが前回のお話でした。
そんな理性の使いどころは、人間がよりよく生きるために考えるときです。
カント先生は普遍的な道徳法則について考え実践することこそが人間の幸福だと言っています。
人間は道徳的行為を実践できる自由がある
前回のおさらいです。
…というよりも前回、続きは次回ということで放置されていた命題があります。
人間は自由であるか。
これです。
ニュートンの万有引力の法則(自然法則)を覆すようにリンゴを宙に浮かせる自由は人間にはなさそうです。
でもだからといって人間の振る舞いの全てが自然法則にしたがっているとしたらどうでしょうか。
番組内で伊集院光さんはこのようなことをおっしゃっていました。
人間に自由を認めないならば、ある人が犯罪を犯したとき、罪に問えないんだ。
だってそれは自然法則にしたがっているから。
だから人間には自由があるという結論に至ったわけですね。
リンゴを宙に浮かせる神業を使う自由はもちろんありませんが。
- おなかが空いたから目の前にあるおいしそうな商品を購入せずその場で食べる。
- 疲れてもう歩けないから道のど真ん中で寝る。
- 気が合わない人がいたから殴った。
これらの行為をするかしないかを選択する自由が私たちにはあります。
おなかが空いた,疲れた,腹が立ったなどの生理現象のようなものに流されるままの存在ではないというわけですね。
- おなかが空いていても自分のものではない食べものを許可なく食べてはいけないから辛抱する。
- 疲れていても道のど真ん中で横になると他の人が通りづらくなるから他の行為を選択する。
- 気が合わない人がいても人を殴るという行為を選択しない。
これがカントの考えた自由のようです。
カントによれば、人間は現象界に属する感性と叡智界に属する理性のはざまにいるようです。
感性ではおなかが空いた,眠たいと思っていても、理性によって感性のままに従うことは果たして自分と他者にとって道徳的に良いことなのかを考える。
これがカントの考えた人間の持っている自由です。
カントが生きた時代
ところで。
読者様の中には、なんでこんなことをカントは考え続けたのかという疑問を持っている方もいらっしゃると思います。
実はわたしもそうでした。
高校倫理で初めてカントに出会い、著書『永遠平和のために』や「目的の王国」という考えにはとても感銘を受けました。
ですが三大批判書などに書かれてある内容に関しては、あんまりよくわかりませんでした。
コペルニクス的転回だ!
…と言われても
それがどうしたんの?
だから何なの?
…と思っていましたごめんなさい。
ですがカントが人間の認識能力について問い続けたのは深い深い理由があるのです。
番組内でも軽く触れられていました。
わたしは大学生のときに先生から聞きました。
カントが生きていたころ、1724年から1804年のあいだのいちばん大きな歴史的出来事といえば…
です。
カントは生涯プロイセン領ケーニヒスベルクから外には出なかったらしいですが、フランス革命はヨーロッパ全土に影響を与えたと言っても過言ではありません。
もちろんカントには何かしら影響を与えたと思います。
番組では「共感を隠さなかった」という紹介がされていました。
フランス革命の何がそれほど革命的だったのか。
それはやはり「人間が平等である」という考えが生まれたことではないでしょうか。
当時は今以上に人間は平等ではなかったです。
フランス革命以前、三部会というものがありました。
高校で世界史を一生懸命学んだ方はご存知だと思います。
この三部会、けっこうえげつないんですよ。
- 第一身分である聖職者
- 第二身分である貴族
- 第三身分である市民や農民
それぞれに投票権が与えられたのですが…
有効票は一身分につき1票です。
本棚に眠っていた世界史の参考書を引っ張り出して調べたところ、三部会の議員数は、
- 第一身分約300名
- 第二身分約300名
- 第三身分約600名
だったそうです。
現在の選挙における考えかただと有効票数は1200票ですね。
ところが当時の有効票数は3票です。
およそ600名もいる市民や農民の票がたった1票にまとめられるわけですね。
しかも当時のフランスにおける第三身分の人口はおよそ98%だったそうです。
市民にとってあからさまに不利ですよね?!
現代の日本社会でこんな選挙をしたら、さすがに日本国民もデモを行うのではないでしょうか。
わたしもたぶん怒り狂います。
今現在の選挙方法に問題がないわけではありませんが…
…というわけで聖職者や教会に権限がありすぎました。
聖職者や教会の言うことが正しい、彼らの言うことに従うことが道徳だという時代だったわけです。
そんな時代に生きたカント先生は思いました。
市民や農民だって、聖職者や貴族と同じように悟性や理性を持っているはずだ。
たぶんそうです。
ごめんなさい。
ちょっとわたしの妄想が入っています。
参考文献はこれです。
…と言いたいところですが、わたしが参考にしたのはひとつ前の版です。
受験生のためにも最新版のリンクを貼っておきますね。
英語や国語もバランスよく勉強してくださいね。
世界史の沼にはまるのは志望大学に合格してから。
今を生きるわたしたちに与える影響
けっこうあやふやな知識をもとに展開してきたこのブログもいよいよ折り返し地点です。
もしあきらかにおかしいという点があればはてなブックマークやお問い合わせなどでお声かけください…。
カントの思想を、今のわたしたちはどう受け取るのが良いのでしょうか。
『100分de名著』のテキストには、AI(人工知能)を盲信することは、カントの考えに基づけば懐疑的にならざるを得ないというようなことが書かれてあります。
人間はAIの劣化版という考えに至る人もいるかもしれません。
ですが人間の理性がより良く生きるために問い続ける側面もあるのならば、社会システムはAIだけで完結するものではないと思います。
また、最近アメリカで人種差別が大きな問題になりましたね。
きっとカントがこのことを知ったら、ものすごく批判すると思います。
どんな人間でも自分も周りの人も幸せになる意思決定ができる自由があり、それを選択することこそが幸福であるというのがカントの考えです。
カントが生きた当時は身分による不平等がありましたが、その身分のちがいが人種に変わっただけですね。
悲しいことです。
どんな人にも道徳的行為を選択する自由があるというカントの考えが正しいのであれば、いつかきっと差別がなくなるはずなのですが…。
現実は厳しいですね。
本当はカントも自由や道徳法則についてわかっていないのかも?
この章はわたしの妄想です。
カントは時間や空間を超えた問いには答えを出さないと言い切りました。
…ということは叡智界に属する理性や道徳,自由についても答えは出せないとわたしは思うんです。
テキストには叡智界の説明があります。
引用してみましょう。
プラトンのイデア界に根をもつ概念。伝統的には、現象界は感性が対象とする世界であるのに対して、叡智界は知性でしか捉えられない超感覚的な世界のことをいい、可知界、英知界などとも訳される。カントはこれを、人間の理性的な認識が及ばない「物自体」の世界として捉え直した。
『100分de名著』2020年6月号 p.128より引用
自由や道徳法則ももちろんこの叡智界に属しています。
カントによれば、自由は叡智界に属しているものの、人間は実践の場面においては「自由」の存在を信じているそうです。
でも自由も道徳法則も叡智界に属しています。
それでも人間の理性は問い続けます。
完全な生き方とは?
最高に善い生き方とは?
カント先生もこのようにして生涯、人間の幸福について考え続けたのではないでしょうか。
そしておそらく死ぬまで未知な部分を感じていたと思います。
それでも問い続けることをやめなかった。
それこそが道徳的行為だから。
カントの墓碑にはこのようなことばが刻まれているそうです。
わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、ますます新たな讃嘆と畏敬の念が心を満たす二つのものがある。それはわが頭上の星辰をちりばめた天空と、わが内なる道徳法則である。
孫引きです。
テキストのp.116に書かれてありますが、これは『実践理性批判2』から引用されたものです。
このブログは学術論文ではないのでお許しください。
道徳法則というのは星がちりばめられた天空と同じくらい素晴らしいということですね。
ですがわたしはこうも思うのです。
道徳法則というのは星がちりばめられた天空と同じくらい人間の理性では認識できない領域があるけれど、それでも生涯問い続けたくなるものだと。
わたしはカントのように数世紀後にも名が残るような人間ではありません。
ですがカントのように死ぬまで考え続けたいと思うのです。
たとえわたしが死ぬまで人間の差別がなくならないとしても、
どうすれば人が幸福になるのか考え続けたいのです。
本当に善い生き方なんかたぶん一生わかりません。
差別だって悲しいけれどたぶんなくならない。
理性の暴走によってカントの思想が一蹴される時代が来るかもしれない。
でも。
ふと夜空を見上げたときに、わたしはわたしを幸せにできているだろうか、周りの人たちを幸せにできているだろうかとじっくり考えてみたいです。
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