この記事は3600字程度です。
こんにちは。
自称発達障害広報係のふくです。
自称発達障害者ではありません。
ときどき、こんな方の存在を耳にします。
俺、発達障害っぽくてさぁ…
わたし、ADHDっぽいかも…
と言う人たちです。
このようなことを言う方々の中には、
- 精神科など専門機関への相談等を真剣に考えている。
- 発達障害に関してほとんど知らないものの、何か別の理由で日常生活に何かしらの支障をきたしている。(SOSのサイン)
…という方々もいらっしゃるかもしれません。
ですが、専門機関に相談等をする気が全くなく、「発達障害」や「ADHD」ということばを免罪符のようなものとして使っている人もときどき見受けられます。
「発達障害」だという理由だけで、失言や遅刻などが許されるわけではありません。
発達障害当事者さんたちの多くは、診断前後に悩み苦しみ、診断後もいつどのように自身の障害を公表しようか、どうしたら障害特性に自分も周りの人々も苦しまずにすむのかなど、日々模索されています。
本もたくさん読みますし、コミュニケーションスキルも障害があるなりに身につけようと努力されている方々もたくさんいます。
がんばりすぎて過剰適応状態となり、うつなどの精神疾患になってしまう方もいるほどです。
そのような発達障害当事者さんをメディアを通してたくさん見ているので、発達障害についてたいして学んでおらず、専門機関にも行くつもりがない方の軽はずみな「発達障害かもしれない」発言は、とてもいやな気持ちになります。
安易に発達障害を自称しないでください。
せっかく発達障害当事者が勇気を出して障害を公表しても、甘えだとかやる気の問題だと叱責されるのは、この自称発達障害者の存在も理由の一つではないかと個人的には思います。
ところで…
なぜ発達障害を自称する人がいるのでしょうか?
ADHDっぽい
発達障害っぽい
は聞きますが、
わたし、視覚障害っぽいかも…
俺、身体障害者かもしれない…
という人を見かけたことはありません。
というわけで!
今日はこのことについて私なりにいろいろと考えてみたいと思います。
定型発達者=発達障害ではない人?
本題に入る前に、また一つ読者の皆さまに謝らなければいけないことがあります。
それは、過去のブログで「定型発達者(≒健常者)」ということばを使ってきましたが、これはあまりいい表現ではありません。
「健常者」ということば自体に違和感はありますが、今回はこの件には触れません。ごめんなさい。
健常者ではないけれど定型発達者ではあるという人がいるからです。
少なくとも、発達障害について議論などをするとき、足が不自由だけれど発達障害者ではない方は定型発達者という分類になります。
では、どうして今まで「定型発達者(≒健常者)」ということばを使ってきたのか…
定型発達者とはどんな人たちのことなのかを説明するのが非常に難しいからです。
定型発達者とはざっくり言うと「発達障害ではない人」なのですが…
果たしてそんな人は存在するのでしょうか?
発達障害ではない人とは
前回のブログをご覧になってくださった方々の中に、このような疑問を持たれた方はいらっしゃいませんか?
前回のブログはこちらです。
【発達障害ってどんな障害ですか?】発達障害者ふくの場合 - 発達障害者ふくの徒然草
- 発達障害者じゃなくても会話が一方通行な人ってけっこういるよね?
- 毎朝カレーを食べ続けている人は同一性へのこだわりなの?
- わたしもショッピングモール内のフードコートは苦手なんですが、もしかして発達障害なんですか?
…残念ながらこれらの質問のうち、わたしが適切な回答をできるものは一つもありません。
これも解説し始めるとややこしくなるのですが、またまたざっくり説明すると…
人はみな多かれ少なかれ発達障害特性を持っている。
雑すぎる説明です。
ごめんなさい。
もう少しがんばります。
がんばれ、広報係ふく!
「スペクトラム」には「連続性」という訳があります。
人はそれぞれ発達障害特性を多かれ少なかれ持っているので、発達障害者と定型発達者の線引きははっきりできるわけではないというような概念です。
だから、発達障害っぽいかもしれないという発言が成立するのかもしれませんね。
「定型発達者」がいないと困る人々
ですが、下手をすれば「人間はみんな発達障害者だよ」とも受け取られてしまいかねないこの雑な説明が、国や地方自治体といったオフィシャルな場でも採用されると、大変困る人々がいます。
そう!
私たち発達障害当事者です。
やはりお医者さまから「障害」という診断をもらっているので、日々の生活ではそれなりに困るわけです。
また、働くときは障害特性を理解してもらって、職場環境を整えてもらう必要があります。
合理的配慮といいます。
そんな私たち発達障害当事者にとって、「みんなそれぞれ多かれ少なかれ発達障害特性を持っている」は時として刃となります。
- みんな発達障害特性をそれぞれに持っていて、各々のやり方で克服しているんだから、あなたも努力すればできるようになる。
- みんな発達障害特性を持っているんだったら、あなただけ会社や学校に配慮してもらうなんてずるい!私だって大変なのに…
と思われてしまうと、非常に肩身が狭いです。
実際にこれに近いことを言われたこともあります。
ただ、大量の質問表を親子で記述して、何時間もかかる検査にお金と労力を費やした結果、発達障害と診断されましたので、やはり私は平均的な人たち(?)よりもしんどい場面に出くわすことが多いと思いますし、ほかの方に助けていただかないとどうにもならないこともたくさんあります。
なので、発達障害者とそうではない人の線引きを一応決めておいてもらわないと私は困りますね…。
ところが、この線引きによってかえって苦しい思いをする人もいます。
発達障害特性を持っていて苦しいけれど、検査等をしたところ、ここからが発達障害ですよというラインにぎりぎり到達しなかったため、発達障害の診断がもらえない人々ですね。
発達障害のグレーゾーンといいます。
「スペクトラム」という概念と現在の日本社会を同時に成り立たせようとすると、どうしてもこのような弊害も出てきてしまいます。
この問題に関しては心が痛いです。
診断の有無で配慮してもらえるかどうかが決まってしまうこともあるらしく、これに関しては線引きがあるがゆえの悲劇だと思います。
「みんな発達障害特性を持っている」を悪用する人々
それでも、発達障害と定型発達の線引きがあってほしいと思ってしまいます。
もちろん、全ての人々が幸せに生活できたらそんな線引きは要りません。
わざわざ障害などという概念を持ち出さずとも、困っている人に気づいたらみんなで助け合えばいいのです。
ですが、そんなものは幻想です。
残酷な人間や自分の利益しか考えていない人は山ほどいます。
もしもこの「線引き」がなかったら…
- 「人は誰しも多かれ少なかれ発達障害特性がある」という考えを都合よく解釈し、合理的配慮をしない会社や学校が増えると思います。
- 発達障害を軽はずみに自称して、障害を免罪符にわがまま放題し、人格形成のための努力を怠る人も増えるでしょう。
実際に私は、みんな多かれ少なかれ苦手なこともあるけれど努力して一人前になっているんだというような考えをもつ上司のもとで働いていました。
合理的配慮がほとんどなく、辛い思いをしました。
そのくせ障害者を雇用することによって国から支給される補助金はちゃっかりもらっている会社でしたね。
今思い出しても悔しいです。
発達障害者ふくがオープン就労でもほぼ合理的配慮をしてもらえなかった話1 - 発達障害者ふくの徒然草
多くの人々が暮らす現代社会にとって、
「発達障害と定型発達の線引き」は必要悪だ
…と個人的には考えています。
障害があってもなくても…
ですが、普段生活するうえで、この無理やり作った(?)「発達障害と定型発達の線引き」は厳密に守られなければいけないものでしょうか?
発達障害者だからといって、いつも支援が必要というわけではありません。
定型発達者だからといって、全てが自己責任の一言で片づけられてしまうのは、冷たい社会だと思います。
また、発達障害のグレーゾーンの方々が発達障害者よりも快適に暮らせていると断言できるはずがありません。
なぜ発達障害を自称する人がいるのかについて考えるときも、やはりその人も助けてほしいのかもしれないなと思います。
かわいそうだと思われたいという人もいるのかもしれませんが、そう思うに至ったのはやはり過去に辛いも思いをされているからだろうなとも思います。
でも安易に発達障害かもしれないと言うのは控えてほしいです…
法律では一応の線引きがあるけれど、普段の生活ではその線引きをこえていきたい。
障害の有無に関係なく助け合って生きていきたい。
本当はそんな理想を夢見ています。
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