2589年
わたしは大学生になった。
わたしは相変わらずことばにできない苦しさを感じている。
同級生たちからは「変わっている」と馬鹿にされたり、いじめられることもあった。
学校の先生からは、「もっと相手の人の立場を考えて、ことばを尽くしなさい」,「最後まで人の話を聞きなさい」とさんざん叱られてきた。
でも、なんで相手の立場を思いやれることができる人たちが、わたしをいじめたり、わたしがいじめられているのを見て見ぬふりをするんだろう。
わたしが顔をゆがませてしまっていても、何も気づかないらしい。
やめて!
…と大声で叫んでも、
何をどうしてやめてほしいの?
全然わからない。
普段からそうやってことばを省略してばかりだから、理解してもらえないんじゃないの?
…と言われてしまう。
彼らの顔を一目見るだけで、わたしを馬鹿にしていることがわかる。
あなたたちの顔を見たらわかるのよ!
わたしのこと、馬鹿にしてるんでしょ?
わたしは今まで心にしまっていた「顔を見ればわかる」ということばを言ってしまった。
顔を見たらわかるって何…?
頭おかしいんじゃないの?
もうあなたに近寄りたくない…
その日以来、
いじめられなくはなったが、
誰もわたしには近寄らなくなった。
わたしは変らしい。
大学は知っている人がいないところを選んだ。
親元を離れて一人で暮らしている。
少し苦しい。
でも、「家の中に一人でいると、他の人がいないからつらい」という感覚もわたしだけしか持っていないらしい。
わたしは一人でいることがつらい。
一人でカフェに行くことができない。
一人でラーメンを食べに行くなんて、想像しただけでおなかが痛くなってしまう。
でも、他の人たちにとっては、それは「普通」らしい。
一人でごはんを食べることが「普通」らしい。
普段はことばを尽くせとうるさいのに、ごはんは一人で集中して食べるのがマナーだ。
わたしはごはんを食べながら、人と話したいと思う。
わたしは人がごはんを食べているときの顔を見るのが好きだ。
みんな顔が緊張から解き放たれているように思う。
その顔を互いに見せ合って、おいしいごはんを食べれば、わざわざ「このおかずは、酸味が適度に効いていて、とてもおいしかった」などとことばを使わなくても幸せなんじゃないんだろうか?
そう言ったとき、
やっぱり誰もわかってくれなかったから、
この感覚も心の中に閉まっておこう。
とはいえ、一人でいると、コミュニケーションのために頭を使いすぎなくていいので、少し楽かもしれない。
人がそばにいなくて少し寒いけれど。
わたしも人とコミュニケーションがうまくとれるようになりたい。
自分のように人とコミュニケーションがうまく取れない人の役に立ちたい。
そう思って、臨床心理学を学んでいる。
ある日の授業で、
わたしは「定型発達症候群」という障害について学んだ。
授業が終わってからも、ずっとこのことで頭がいっぱいだった。
家に帰ってから、「定型発達症候群」について調べてみた。
これはわたしのこと?
わたしは「定型発達症候群」なの?
調べれば調べるほど、自分のことのように思える。
わたしは…
定型発達症候群という障害があるのだろうか?
定型発達症候群という障害を持つ障害者なんだろうか?
この小説は、「定型発達症候群」というすでに存在していることばをもとに、構成されたフィクションです。
「定型発達症候群」という障害は実際には存在しません。
参考文献
自閉症スペクトラムとは何か: ひとの「関わり」の謎に挑む (ちくま新書)
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